こんにちは。
今日は僕が人生で得た
大きな教訓について
書いてみようかな。
息子を亡くした時に僕の身に起きたこと
息子は僕たち家族の前で
体調が急変し、
そのまま帰らぬ人となりました。
その時の体調が急変してから
亡くなるまでの間のやりとりは、
とても生々しくて
全てを語る気にはなりませんが、
僕の中にイメージとして
びっしりとこびり付いて
しまいました。
意識を失った息子の顔。
けたたましく鳴る
心電図のアラート。
眠ろうとして目を閉じるたびに
当時のイメージが蘇り、
まるで目の前で同じことが
繰り返されているように
感じられました。
その度に僕はハッと目を開けて
現実に帰ってくるのですが、
何度も同じことが繰り返されると
目を閉じるのが怖くなってきます。
どうもゆっくり眠るというのが
出来なくなっていました。
そのことを兄に相談したのですが、
兄から返ってきた言葉が
僕に大きな気付きを
与えてくれました。
その言葉というのが、
「辛いと思うけど
大切な人の死に目に会えるのは
当たり前のことではないよ」
というものでした。
兄が今、その言葉を言ったことを
覚えているかは知りませんが、
僕にとってはかなり
インパクトのある言葉でした。
でも、もし僕が、
夜遅くまで仕事をしていた
以前の働き方を続けていて、
息子が亡くなる瞬間の辛さを
妻と娘だけに味合わせていたら?
もしくは息子が一人で入院していて、
苦しみながら意識が遠のいていく時に
誰も家族がいなかったら?
と考えた時に、
最期の瞬間に家族全員が
揃っていたことに、
心からの感謝が溢れ出てきました。
それ以来、
目を閉じて息子が亡くなる時の
場面がイメージとして現れた時、
自分の心へ向かって、
「死に目に会わせてくれてありがとう」
と言うようになりました。
すると不思議なもので、
今まで目の前で
生々しく死の場面が
繰り広げられていたのが、
まるでテレビの画面を
見るくらいの距離まで
離して見れるようになりました。
『一歩引いて見る』
というような感じですね。
僕はこの時にとても大きな気付きを
得ることが出来ました。
それが、
『悲しむことと悲しみに囚われて
自分を見失うことは全く別のことだ』
ということです。
当たり前ですが悲しみ自体が
消えてなくなる訳ではありません。
ただ、
純粋に悲しむことが出来るようになり、
悲しみと真正面から向き合うことが
出来るようになったと思います。
残念ながら悲しみを避けて
生きることは僕には
考えられませんでした。
悲しみを避けて、なかったことに
するというのは、
息子の存在自体をなかったことに
してしまうような気がしたからですね。
物事には真正面から向き合わないと
いけない時があるのだと思います。
そのことに気付けたのも、
悲しみに囚われて
自分を見失った状態から
抜け出せたからだと思います。
まあ、今でも別のことでは
真正面から向き合うことを
避けてることだってありますよ。
自分ダメだなと思うこともあります。
でもね、
一歩ずつでもいいから
前に進んでいこうと思います。
自分を見失わないようにね。
では。